盾が味方を攻撃するとき#

メリーランド州に、国会議事堂からそう遠くない地区があった。ある夜、午前2時にパトカーが一台、その通りを流していくのを見た。回転灯もサイレンもない。ただゆっくり走っているだけだ。あの警官は通報に応じていたわけじゃない。報告書には「地域巡回」と書かれるだろう。でもあの歩道にいた全員が分かっていた——あの警官は一人ひとりの顔を品定めしていて、品定めされている側もそれを分かっていた。

あの街区の住人は、何かあっても警察を呼ばなかった。自分たちで何とかするか、そのまま放っておくかだった。地元の雑貨屋の店主になぜか聞いてみた。彼は制度的差別がどうこうという話はしなかった。ただ肩をすくめてこう言った。「自分を問題扱いしてくる奴を、なんで呼ばなきゃいけないんだ?」

その言葉はずっと頭に残った。あらゆる政策論争が見落としているものを、一言で捉えていたからだ。偏見ある取り締まりの本当のダメージは、個々の接触にあるのではない。その後に静かに失われていく信頼にある。


免疫システムの仕組みを考えてみてほしい。体には「自己」と「脅威」を見分ける細胞の軍隊がいる。このシステムが正常に機能していれば、まるで奇跡だ。感染は早期に発見され、侵入者は排除され、体は健康を保つ。

だが時にシステムが暴走する。体自身の組織を攻撃し始めるのだ。医者はこれを自己免疫疾患と呼ぶ。防御機構は崩壊するのではなく、内側に向かう。本来体を守るはずの仕組みが、内側から体を引き裂き始める。

偏見ある警察活動がコミュニティに与える影響は、まさにこれだ。

法執行機関は市民社会の免疫バリアであるべきだ。警察官は脅威を見極め、危険を排除し、市民を守る訓練を受ける。しかしそのシステムが根深い偏見のもとで動いている時——コミュニティ全体を、守るべき人々ではなく脅威として扱う時——それはもう盾ではない。守るべき体を攻撃する自己免疫疾患になる。

そして、すべての納税者、すべての市民、公共の安全を気にかけるすべての人間を震え上がらせるべき事実がある。この自己免疫的な攻撃は、標的にされたコミュニティだけを傷つけるのではない。システム全体を弱体化させるのだ。


メカニズムを説明させてほしい。これは感情論ではなく、現場で実際に起きていることだからだ。

効果的な法執行はコミュニティの信頼に依存している。火が酸素に依存するのと同じだ。供給を断てば全てが消える。人々が警察を信頼していれば、情報が入ってくる。目撃者が名乗り出る。近隣住民が不審な活動を報告する。情報が街から署へと流れ、その情報こそが犯罪予防の原材料だ。

偏見がその信頼を腐食させると、情報のパイプラインが閉じる。派手にではない——抗議やプレスカンファレンスでではない。一人ずつ、静かに閉じていく。電話をかけなくなった雑貨屋の店主。息子に警官に近づくなと言う母親。全部見ていたのに刑事に「何も見てない」と言う目撃者。

こうなると警察は盲目で動いている。まだパトロールし、逮捕し、報告書を書いている。だが情報ネットワーク——コミュニティそのもの——を失っている。コミュニティの情報なき警察は、センサーなき免疫システムだ。まだ拳は振れる。でも何を殴っているか見えない。だから手当たり次第に殴る。偏見が増え、信頼が減り、情報が減り、穴が広がる。

この悪循環は比喩ではない。今まさにアメリカの数十の都市で起きている現実だ。


この問題を本当に危険なものにしているのは——単に悲しいだけではなく——偏見が個人のレベルにとどまらず、制度の中に焼き込まれるということだ。

偏見を持った警官が一人いるなら、それは人事の問題だ。再教育、配置転換、解雇で対処できる。だが偏見がシステムに浸透した時——予測的ポリシングのアルゴリズムに、逮捕件数を重視するパフォーマンス指標に、「あの地区はそういうもんだ」とささやく組織文化に——相手にしているのはもう腐ったリンゴ一個ではない。病気にかかった果樹園全体だ。

予測的ポリシングのソフトウェアを例に取ろう。先進的で清潔に聞こえる——犯罪データをアルゴリズムに入力し、どこにリソースを配備すべきか教えてもらう。ただし、そのアルゴリズムが消化しているのは過去の逮捕データであり、そこには何十年もの偏見的な取り締まりが反映されている。つまりアルゴリズムは犯罪が起きる場所を予測しているのではない。警察がこれまで注目してきた場所を予測しているのだ。そしてそこにさらに多くの警官を送る。逮捕が増え、データが増える。偏見は持続するだけでなく、数学的な精度で複利的に増大する。

パフォーマンス指標も同様だ。部署が成功を逮捕件数で測る時、警官は最も容易な標的を追う——それは常に、すでに過剰に取り締まられているコミュニティだ。何も起きない地区で静かに信頼を築いても昇進はしない。昇進は数字で決まる。数字は取り締まりから生まれる。コミュニティとの関わりからではない。

文化の層が最も厄介だ。最も見えにくいからだ。ロッカールームの隠語の中に、ベテランから新人へと頼みもしないのに受け継がれる思い込みの中に潜んでいる。「あのエリアがどういう所か、そのうち分かるよ」とベテラン警官が新人パトロールに言う。意味するところは——あそこでは全員を容疑者として扱え。新人は疑問を挟まない。挟む理由がない。教官がサバイバルの方法を教えてくれたのだから。


この問題では、私は左右どちらの多くの声とも意見が分かれる。

左派はこれを道徳的危機として捉えがちだ——悪い人間が悪いことをしている。差別主義者を首にし、警察予算を削り、やり直せ。気持ちは分かるが、構造的な現実を無視している。偏見のある警官を今日全員解雇しても、システムは同じ結果を再生産する。偏見はデータ、指標、文化、インセンティブ構造の中に生きているからだ。日本でも同じ構造が息づいている。47NEWSが詳報したように、ヘイトスピーチ解消法施行から十年が経った今も、国連人種差別撤廃委員会から何度も不備を勧告され、差別禁止法や独立した人権機関を欠いたままだ。ヘイトの矛先は在日コリアンから埼玉のクルド人コミュニティへと移り、子どもまでもが標的になっている——「人を入れ替えれば解決する」問題ではないことの、これ以上ない証拠だ。システムを変えずに人だけ入れ替えるのは、自己免疫疾患を治療せずに白血球だけ入れ替えるようなものだ。

右派は会話全体を「反警察プロパガンダ」として退けがちだ。「大半の警官は困難な仕事をこなす善良な人間だ。」それは正しい。正しいと分かっている。キャリアを通じて法執行機関と一緒に仕事をしてきたからだ。だが大半の警官が善良であることは、システムが健全であることを意味しない。自己免疫疾患の患者の体内でも、大半の細胞は正常に機能している。この病は多数派の問題ではない。正常な機能を自己破壊に変えてしまうシステム的な異常の問題だ。

正直な答え——居心地の悪い答え——は、内部検知メカニズムが必要だということだ。健全な免疫システムが常に自己免疫マーカーをスキャンしているように、健全な法執行システムは常に制度的偏見をスキャンする必要がある。警官が悪い人間だからではない。システムはドリフトするものだからだ。インセンティブは歪む。データは過去の誤りを蓄積する。能動的な自己修正がなければ、どんなシステムもいずれ味方を攻撃し始める。


実際にはどうすればいいのか。

第一に、ツールを監査する。すべての予測的ポリシングのアルゴリズムに偏見増幅のストレステストを実施すべきだ。「中立」なソフトウェアが循環データに基づいて同じ地域に不釣り合いな警察力を送り続けているなら、それは中立ではない——白衣を着た偏見マシンだ。監査し、修正し、さもなくば停止する。

第二に、指標を再設計する。逮捕件数で警察の有効性を測るのをやめる。コミュニティ信頼指標で測り始める——コミュニティからの通報への応答時間、目撃者の協力率、再被害率。警察への信頼が低下しているなら、それは広報の問題ではない。運用上の失敗であり、そう扱うべきだ。

第三に、実質的な文化的アカウンタビリティを構築する。全員が居眠りする感受性トレーニングの劇場ではない。実効性のあるアカウンタビリティだ。上司は部下が築いたコミュニティとの関係で評価される。解決した事件数だけではなく。偏見パターンが固定化する前にそれを捉えるピアレビュープロセス。取り締まりだけでなく、コミュニティへの関与を報いる昇進基準。

第四に——おそらく最も重要なこと——聴く。カメラの前で用意した原稿を読むタウンホールのような聴き方ではない。インテリジェンスの専門家のように聴く。体系的に、継続的に、コミュニティの法執行に対する認識は任務の邪魔ではなく、任務そのものだという理解のもとで。信頼がなければバリアはない。バリアがなければ、保護もない。


免疫システムが正常に機能する姿を見たことがある。守る者と守られる者の関係が非常に強く、脅威が具体化する前に排除されたチームにいたことがある——誰かが我々を信頼し、電話をかけてくれたからだ。その信頼はタダで与えられたものではない。日々の、一回一回のやり取りの中で獲得したものだ。

そしてそれが崩壊する姿も見た。守るべき人々が、あなたをもう一つの脅威として見る時。あなたが地域に現れると安心ではなく緊張が生まれる時。盾が味方を攻撃し始める時。

この戦いは警察対コミュニティではない。自己修正するシステムと自己崩壊するシステムとの戦いだ。今、あまりにも多くの場所で、我々は負けている——善良な人間が足りないからではなく、システムを自己免疫不全へとドリフトさせてしまったからだ。

これを直すのは責任追及のためではない。生存のためだ。法執行が市民の信頼を失った社会は、不公正なだけではない。無防備なのだ。